第6回 東日本大震災から10年-いま何を想う
高橋 豊(仙台白百合女子大学)
私がこのリレーコラムを書くにあたり考えたことは、2011年3月11日に起きた東北沖を震源とする大地震のことです。実際にはあまり思い出したくはない出来事です。地震から引き起こされた津波で、多くの方が犠牲になりました。
当時私は大学で、新しい財務システムの導入指導を受けていました。システムの担当者は福岡から来ており、たまたま震災に遭遇してしまった訳です。地震後すぐに飛行場に行きたいと言われましたが、信号が止まり、幹線道路は大渋滞で動けませんでした。後に、津波で浜辺に多くの人が打ち上げられていることを知りました。飛行場も津波を受け、飛行機が流されている映像がテレビに映りました。結果的にいかなくてよかった、いけなくてよかったということです。
それから長い避難生活が始まりました。とくに大変だったのが、食料とガソリンです。ガソリンは油槽所が被災したため、流通しないという事態が続きました。
この時に学んだことは情報収集の重要性です。情報は足で稼ぐことが大切でした。翌日から自転車で通勤し、スーパー(食料品の販売)の情報、ガソリンスタンドの情報から、皆がスーパーに並んでいる時にホームセンターに行き、ガスボンベやお菓子を買ってきました。機転が利くことも生き抜くために必要だと実感しました。
また、待っていては、配給されるまでに時間が掛かります。水も出る地域と出ない地域がありました。地震後、すぐにお風呂に水を溜めてトイレ等に使いました。ソーラーパネルの家は電気が使えたので、米を炊いてもらいました。
JUAMの仲間からも多くの励ましの言葉と物資を送るとの温かい心遣いを頂きました。我慢強い東北人と言われましたが、停電は防犯カメラも止めてしまうため、恐怖を感じる瞬間でもありました。
この日(2011年3月11日)、JUAMでは、日本大学で理事会が開かれていました。東北地区研究会からは学校法人東北学院の斎藤英夫氏と学校法人宮城学院の井上富美子氏が参加しており、お2人は東北新幹線が止まったため、山形経由で宮城県まで戻ったとの話を後に聞きました。
あの日から間もなく10年が経過します。私の生活は通常に戻っておりますが、海沿いの地域は、元の姿を取り戻してはいません。人も住めなくなった地域もあります。確実に再建していると思いますが、実はあの日を思い出したくはないですし、津波の映像も見たくないのが、本当の気持ちです。その後にもたくさんの災害が各地で起きておりますが、そのたびに犠牲者がいないことを願っております。
東日本大震災からの教訓としていま想うことは、大地震によりもたらされる津波の怖さ、「津波てんでんこ」、「浪分(なみわけ)神社」といった昔の人が語り継いできた言葉や建造物など、忘れられていたことがクローズアップされましたが、何年かすると記憶から消えてしまう、ということです。忘れてはいけないことと、伝えなければいけない過去を継承することの大切さを実感しています。
そして、その地域にある大学は、そのことを後世に伝え、忘れないように受け継いでいくことが役目であると強く思っています。
最後になりますが、元学校法人東北学院 事務局長 斎藤英夫氏が2021年1月10日に永眠されたことをご報告いたします。東北地区研究会では、常務理事及び理事を歴任され、東北地区研究会の発展に尽力されたことに敬意を表し、謹んでお悔やみを申し上げます。私が斎藤氏から教わったことは、「飲みにケーション」の大切さであり、東北地区以外の方たちとの交流の機会を作っていただいたことに感謝しております。
私もこの東北地区研究会を盛り上げ、職員ネットワークの構築のために、微力ながら貢献できるように努力する所存ですので、是非皆様も東北地区研究会及び中堅・若手勉強会にご参加くださいますようにお願い申し上げます。