第10回 社宅と遊び場
林 将弘(立教大学)
私は小学生のとき、社宅で育った。そこは父が勤めるメーカーの敷地の一角だった。
会社はかつてカイコを飼って生糸を生産し大いに栄えたそうで、広大な敷地を有していた。しかし、その後事業転換し、私の小学生当時は機械部品を作る工場、物流を担う「集配センター」、事務所などが主な施設になっていて、土地にはゆとりがあった。
社員とその家族の福利厚生のための、野球場1個分の大きなグラウンド、かわいらしい草花が自生する砂利の小道、雑草に覆われた小高い丘、大木(主にケヤキ?)の林、小学校のプールより深い貯水槽などなど……。そこには子供たちが探検したくなる、自由に遊べる場所が豊富にあった。
晴れた日の下校時は、決められた通学路を外れて、会社の敷地の中を道草しながら自宅に帰ることがあった。路傍にはタンポポやヒメジョオンなど、たくさんの草花。
遊び友達は社宅の子供たち。学年の違う子とも、よく遊んだ。敷地のどこかに捨てられていた4輪台車を誰かが持ってきた。何人かで乗り、加速をつけて丘を滑り降り、何度となくジェットコースターごっこを楽しんだ。
4つ年下の弟が、学校帰りに貯水槽の周りで遊んでいて、落っこちてしまったこともあった。運よく一緒にいた社宅の友達に助けてもらい、ずぶぬれになって帰ってきた。運が悪ければ溺れていたかもしれないが、子供が敷地の中で遊んでいても、社員=大人たちには咎めない大らかさがあった。
そうした敷地の一角に、社宅はあった。当時でも比較的古い、二軒長屋の平屋家屋だった。8畳間の和室に家族4人ふとんを敷き、子供たちは夜9時には床に入っただろうか。……と、ときどき遠くから、「ガシャーーン」と大きな音が夜空を切って、長く、繰り返し響く。長大編成の貨物列車同士を連結させたときに起きる音だ。
近くには国鉄(いまのJR)の貨物操車場が広がっていた。このころは鉄道貨物輸送が盛んだった。いま思えば少し珍しいところで暮らしていたものだが、毎晩のことでさほど気にはならなかった。
社宅があったのは、のちに「さいたま新都心」という名で広く知られるようになった地区の片隅。1980年代、東京の一極集中を是正するため、近郊にいくつかの「業務核都市」が設けられた。その流れに乗り、ここに新しい街ができた。
開発は急速に進んだ。旅客鉄道駅、幹線道路、官公庁、銀行、スーパーアリーナ、飲食店、商業施設、病院、ホテル、企業の本社・支店、タワーマンションなど、次々に重要施設や高層ビルが作られていった。開発は今後も進んでいくのだろう……。
あれから半世紀近く経ち、いまそこに行くと、あのころにはまったく想像ができなかった大変貌に驚く。それでも、少し歩いてみるとそこここで、「ここにはこういうものがあった」「ここで、こんなできごとがあった」と、さまざまな、自分だけの小さな記憶がよみがえる。
誰にもそうした場所はあるだろう。私にとってはここだ……景色が変わっても懐かしい、大切なふるさと。
