第34回 人生徒然、悲喜交々
久我秀一(福岡大学)
会員リレーコラム読者の皆さま、こんにちは。この度は、何のご縁か執筆のお話を頂戴し、私のようなものに勿体ないお話、いやいや単なる人選間違えではと思いつつ、時は既に原稿締め切りの前日。勤務時間も過ぎ、窓の外は暗くなり、私が日ごろ気分転換に拝ませていただいている緑豊かな油山も見えなくなっている。「嗚呼またやってしまった!」 気分が乗らないとギアが入らないという私の性分が出てしまった(実際はギアが入っても、ローギアのままのほうが多いのだが・・)。
さてさてどうしたものか・・ 自分が何をお伝えできるのか。社会人になって30云年。孔子先生流に言うと、「天命を知る」から「耳順う」になるべき世代である。2度の転職を経験し、今の大学にお世話になっているが、「忠臣は二君に仕えず」という価値観からすると、我ながら座りの悪い人生を送っていると常々思っている。こんな私がお伝えできることは・・。まぁ肩肘張らず、裃つけず、常々思うところを、気の向くまま、思いつくまま、したためさせていただくことにしよう。
「常識」と「非常識」
世の中では、「あの人は常識的な人だ」と誉め言葉で使われたり、面白みのない人間という意味で使われたりする。非常に真っ当な人という意味合いかと理解している。しかし、先の見えないと言われるこの時代、「常識的な発想ではだめだ。常識にとらわれず、もっと大胆でなければこの時代は乗り超えられない」という言葉も聞かれる。両方とも言わんとしていることはよくわかるのだが、そもそも「常識」って何なのだろうか・・。「非常識」や「未常識」という言葉も聞かれるが・・。
「普通」と「普通じゃない」
先ほどの「常識」「非常識」と似たようなことかもしれないが、「普通の人」というと、「常識的な人」というのよりも「可もなく不可もなく」というニュアンスが強いのかもしれない。ちなみに世の人は自分のことをどのように考えているのだろうか。三者三様、十人十色、百人百様、千差万別云々という言葉がある。ということは、「普通」も100人いれば100通りの普通があるのかも・・。もしかしたら、いろいろな普通を許容しているから世の中がうまく回っているのかもしれない。
「自由」と「責任」、「権利」と「義務」
「自由」「権利」、血を流して勝ち取ってきた諸外国の方々とは少し事情が異なるのかもしれないが、私たちが過ごす日本においても、この言葉が重視されており、非常に素晴らしいことと思う。私は昔、学校の先生から、「自由」には「責任」、「権利」には「義務」が伴っていると教えていただいた記憶が鮮明に残っている。この頃、「責任」「義務」という言葉はどこに行ってしまったのだろうか。「自由」「権利」と比して影が薄くなっていると思うのは私だけだろうか・・。
「右」「中道」「左」
政党や報道機関の考えを表現するときに「右」とか「左」とか使われることがある。右左とは意味合いが異なるが、「保守」「リベラル」という表現の時もある。欧州の某国の選挙報道でも、「右」「中道」「左」とカテゴリー分けをされている。時々思うことなのだが、社会的に「右」と思われている人からすると「中道」の人も「左」に見えるのでは、またその逆も然り。結局のところ、自分の立ち位置次第で物事って見え方が変わってくるのかな?
「当たり前」
「こんな当たり前のことが何でできないんだ」 昔、上司に言われた言葉である。今、私自身、部署の皆さんに「基本的なことだけど、当たり前のことを当たり前にきちんとやっていこう」と言っている。この時、昔を思い出した。「あなたにとって当たり前かもしれないけど、私には初めてなんだ」と心の中で呟いたことを。「当たり前」って何だろう・・。
「臨機応変」と「朝令暮改」
世の動きが益々早くなっており、組織における意思決定もよりクイックなものが求められている。当然、意思決定をするのは人である以上、各々の臨機応変な動きが求められる。しかし、同じことをやっていても「臨機応変」に見える人と、「朝令暮改」に見える人がいるように感じる。この違いは? 「結論」のみを伝えるか、結論に至った「プロセス、考え方」も伝えるかの違いなのかな?
「確固たる信念(芯)がある人」と「頑固な人、頑なな人」
「柳のようにしなやかで柔軟な考えができる人」と「周囲に流され主体性のない人」
同じ人の同じ行動を見ても、見る人によって捉え方が違う。多分、どちらも間違いではないのであろう。子育て教室で、子供の良いところを見てと習った覚えがある。見る側の姿勢一つで、見え方も変わってくるのかな・・。しかし、「どうでもいいところに固執するだけの人」「自分の考えがないだけの人」もいるように感じるが、これは私の偏見なのだろうか・・。
思うがままに述べさせていただいた。昔「人生いろいろ」という曲があったが(若い方はご存じないかもしれないが)、人の価値観、ものさし、考え方も「いろいろ」である。多分、その人の歩んできた時代、環境、経験、体験、性格等々によって異なるのだろう。多様性、ダイバーシティ、インクリュージョン等が求められる現在は、この「いろいろ」の幅もより拡大しているのだろう。また、目まぐるしく技術が発達し、今まで以上に個々人の考え、意見を、即社会に表明できるようになると、この「いろいろ」の幅も、また拡がるのだろう。そして、グローバル化、国際化が進むと、民族、国境、人種、宗教、文化等を超えて、今までの倫理、道徳といったものに対しても、考え方、価値観が「いろいろ」になるのかもしれない。
このようになってくると、ことば、文言一つをとっても、伝え手の思い、考えが、ストレートに相手に伝わるか甚だ疑わしくも思える。人それぞれ、考える背景が異なる以上、異なる捉え方になるのは当たり前なのだろう。逆に、そういうものなんだ、だから○○に気を付けて伝えよう、また捉えていこうということが大切なのかもしれない。
結局のところ、物事の見え方、捉え方、感じ方は自分次第。自分の価値観、ものさしをしっかり持ちつつも、周りはいろいろが当たり前、違うことが大前提、ということを理解し、これら全体のバランスを自分自身でとっていくことが必要なのかと思っている。情報過多の時代だからなおさらである。
取り留めもない話ばかり綴らせていただいたが、ここは学会の場。私と学会について、少し触れさせていただこう。私は2度転職をしたと述べたが、2つ目の職場は、今と違う大学であった。そのころからこの学会にお世話になり、今の大学でも継続して参加させていただいている。そして今、この学会の理事を仰せつかっているが、正直なところ力になれておらず、会員の皆さま、他の理事の皆さまに申し訳なく思っている次第である。
私がこの学会に入会したのは、ひとえに大学職員としての自己研鑽のためである。この活動の中で、様々な世代、職種、ポジションの方とご縁をいただいた。業務上の知識は勿論のことだが、それ以上に多くの考え方、視座、視点に触れ、学ばせていただいた。自分の考えの甘さ、薄さ、浅はかさに気づかせてくれる良き場ではないかと思っている。今まで学会なんてと思っていた方も、食わず嫌いでは無く、是非一度、この場を活用いただければと思う。
このように学会とのかかわりを持たせていただいているが、大学の仕事に関連しての学会活動である以上、私自身、次のことだけはこだわってきた。それは、学会に関することは、必ず勤務時間外で対応することである。また学会に関わる以上、大学の仕事は人様以上に取り組むことは言わずもがなである。このような気持ちではあるが、なかなかバランスよく対応できていない自分に、日々もどかしさを感じている。学会の皆さんはいかがですか。ぜひご教示を。
私の気まぐれな話に、最後までお付き合いいただき感謝の一言に尽きる。気の向くまま、思いつくままではあったが、何か一つでも皆さまにとって考える機会になれば幸甚である。
皆さまに感謝、そしてこのように考える機会をいただいたことに感謝である。