第37回 自己啓発の取り組みはどのようにして活用に至るのか─その困難と課題─

 中元 崇(京都大学)

1.はじめに
 先般リレーコラムのご依頼をいただきましたが、テーマは自由とのことで、どのような題材にするか悩みました。現在の業務や業界について思うこと、あるいは大学院の経験について執筆しようとも思いましたが、他の執筆者と重ならないテーマであれば読者もフレッシュに読んでいただけるかと考え、私の博士論文を題材に、いわば「自著を語る」機会にしたいと思います。

 博士論文の題目は
『大学職員の自己啓発による職務能力の形成と活用に関する研究』です(リンクからダウンロード可)。大学職員の方が大半であるJUAM会員の皆さまにも関心を持っていただけるような題目のものかと思います。

2.博士論文の概要
(1)執筆の背景
 大学職員の職能開発に関して、私自身は少なくとも入職時には全く意識していなかったというのが率直なところです。「たまたま」のこととして、国立大学法人化の転機、出向の転機が重なり、自発的に学ぶようになったり、また同様の志を持つ方に出会うようになりました。そうした方の中には、学内外での勉強会や研究会等を主導されたり、自費で大学院等に通われたり、大変精力的に頑張られている方もいらっしゃいました。

 ところがある時、必ずしもそのように学んでいる方が職場から評価されたり、その学んだ内容を活かせるような処遇を受けているわけではないということに気づきました。当初は時間の問題とも思いましたが、何年経とうともそのような傾向が変わることもありません。これはいったい全体なぜそうなっているのだろうとの思いを持つに至りました(このあたりの詳細は博論
p.15-16を参照)。


 このように、入職後の学びが評価・処遇に反映されない背景には、業界を問わず日本の雇用関係全体を規定する「日本型雇用システム」の存在があります(このシステムの詳細は労働学者の濱口桂一郎さんの
『新しい労働社会』を始めとする諸著作をご参考ください)。このシステムでは一部専門職を除けば、個人が保有する知識・スキルと、与えられる業務が結びついておらず、採用後に個人が独自に何かしらの知識・スキルを身につけたとしても、それを組織が評価し、適切な処遇を行うことには(直接には)結び付きません。

 このシステムは大変強固なものです。なにしろ高等教育機関という、社会人の学び直しの機会を提供し、学び直しで得た知識・スキルの活用を後押しする立場にあるような機関においてすら、機関の内部ではそうであるのですから。

 「誤解を恐れずに言えば、経済合理的には自己啓発のコストをゼロにすること(=自己啓発を行わない)ことが最も合理的な振る舞いである」(博論
p.9)とさえ解釈しうるわけですが、この解釈に立つと、先に触れたように自発的に学ぶ方々の姿勢や考えが解釈しがたいものとなってしまいます(あたかも彼らの行為が不合理なものとして捉えることにならざるを得ない)。

 日本型雇用システムに規定される構造的な困難にもかかわらず、それでも彼らが学び、活用しようとすることには主観的な合理性があるはずです。博論では、それを他者からも理解可能なものとするべく、自己啓発の着手から能力の活用に至るプロセスに沿い、学ぶ方々の意味解釈を通じて、その実態を明らかにすることを目指しました。

(2)博士論文の結論
 博論全体は大部(全8章構成)ですので、ここでは結論部のみ紹介したいと思います。自己啓発を行い、それが実際の活用に至るプロセスは次の図(博論p.127)の通り整理されます。



まず、実際に学ぼうとする行動の前においても、多くのステップが存在します。いくら時代の趨勢で大学職員の高度化・専門化が求められたとしても、学ぼうとしない方は一定程度いらっしゃいます。また学びの「きっかけ」(例えば上司や同僚からの声掛けや刺激など)が生じないこともありますし、「きっかけ」があっても「学ばないといけないよな~、声掛けをしてもらってもいるけど、今はちょっと難しいかな」となってしまうこともあり得ます。

 ようやく「学んで活用しよう」と行動に移る段階に至っても、「学ぶ→能力獲得→職場で即活用」という直接的な関係が成立するとは限りません。例えば職場の周囲からのやっかみ、上司が大学院進学を許可しないなどのネガティブな反応を受けることもありますし、ジェンダーギャップ(性差による学びの機会の不均等)も存在します。

 こうした困難は構造的なものであり、直接的な異議申立(例えば真っ向から学びの有用性や業務への活用可能性を訴えるような方策)を行ったとしても、効を奏するとは限りません。そうではない「やり過ごす」ような方策(例えば学び行動を「趣味」と主張したり、業務との結びつきを否定したりすることで、学びをプライベートの領域に押し込み、外部からの干渉を回避する)が取られることもあります。

 そのようにやり過ごしつつ、能力を獲得したとしても、それを活用し得る機会が保証されているわけでもありません。「日本型雇用システム」においては、個人が保有する知識・スキルと職務が直接的に結びついていないため、偶発的な要素(「たまたま」能力を活用できるポジションに異動できた)に頼らざるを得ないのです。偶然性に依拠することから、仮にうまく行ったとしてもそれまでに長い時間を要することもありますし、場合によってはそうならないまま定年を迎えることもあり得ます。

 博論ではこうしたことを踏まえ、「自己啓発で形成した能力が職場での活用に至る過程では個人が学習コストの負担だけにとどまらず組織に働きかけるなど様々な労力を負担し、構造的困難に耐え続ける心性を持つことが条件として求められるが、活用の機会が到来するかどうかは制度的に保証されておらず偶然性に左右されている」と結論付けました(博論
p.129)。

(3)結論からの示唆
 この結論からは色々なことが示唆されますが、一番取り組まれるべきことは現在の構造を変えることと思っています。構造を一朝一夕に変えることは大変困難ですが、その第一歩は、「今何ができるのか」という現在価値に基づいた人材育成・評価・処遇の仕組みづくりだろうと思います。「日本型雇用システム」では、学歴を参照するのは採用時のみであり、採用されればそれ以後の学びはほとんど問われません。そうではなく、個々人が保有する現在の知識・スキルを常時参照し、それに見合った職務・処遇となるような取り組みが求められると思っています。

 この主張については
「学び直しが評価されない日本社会の課題」(大学マネジメント誌20196月号第15巻第3号)の論考で詳述しています(リンクからダウンロード可)。ご関心があればこちらもご一読いただければ幸いです。

3.執筆で苦労したこと
元々、博士論文では大学コンソーシアムの研究を行うつもりでした。テーマを全く変えることとなり、軌道修正・仕切り直しには大いに苦労しました(途中、そもそも何を研究したらよいのやらと悩む時期もありました)。

 また大学職員について書くとしても、単にこれまで知られていることをまとめるだけでは論文になりようもありません。結局五里霧中の中で少しずつ研究を進めることで、核となる研究上の問いが見えるようになりましたが、これも都度修正を迫られ、最終的に固まったのはかなり後になってからだったと記憶しています。

 ほか諸々と様々な苦労がありましたが、調査にご協力をいただいた方をはじめ、多くの方々にご助力・支援をいただいたおかげで書き上げるに至りました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

4.書き足りなかったこと
一つの論文で何かを言い尽くすということはできませんので、書き足りないことはいくらでもあります。例えば自己啓発活動の有無・種類がその後の職位や収入とどのように関係しているのかというような観点、どのような能力(知識・スキル)がどの職務にどう有用であるのかというような観点などは、本論文で直接触れるものとはなっていません。

ただ、今思い起こせば、学んだ個人が、その能力を業務で活用しようとしても、個人が頑張ってもどうにもならない状況については、哲学者の國分功一郎さんが近年掘り起こしている「中動態」の概念を使えば、より良く説明できたと思います。この「中動態」の概念を使っての説明はまたどこかの機会で行いたいと思っています。

5.メッセージ
自己啓発にとても熱心に取り組んだとしても「(組織・職場から)理解されない」「報われない」という思いを持つ方もいらっしゃるかと思います。そのようになる背景にはこれまで述べてきたような社会的構造が存在しています。ご自身だけに責任を帰する問題ではありません。

また、自己啓発で能力を形成し活用に至るまでの過程は長く、かつ困難も伴います。必ずしも周囲の方がそれを理解してくれるわけではありません。場合によっては学内の方よりも学外の方のほうが理解してくれることもあります。大学行政管理学会のような所属組織を超えたコミュニティは、そうした機会になりうる場でもあるように思います。自己啓発に取り組まれる方は、職場内外を問わず多様な方との出会い・交わりの機会を大切にしていただければと思います。

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