投稿

第24回 はじめてのJUAMでの活動

イメージ
澤田 博昭(立命館大学)  私がはじめてJUAMの活動の参加したのは、2005年に札幌大学で開催された、定期総会・研究集会でした。本会はJUAMとして初めての北海道での開催であり、シンポジウムや研究発表で学習することはもちろんですが、プログラム終了後は北海道の豊かな海の幸、山の幸を堪能しつつ、他大学の方々との懇親を深めるという、参加者の皆さんもやや浮かれた雰囲気だったのを思い出します。しかし、私自身は次の日の研究発表に向けて緊張し、なんとなく浮かない気持ちで懇親会に参加していました。  その年の4月、立命館大学では自律的・自主的な大学づくりの担い手となる大学アドミニストレータの養成を行うべく、「大学行政研究・研修センター」が発足しました。本センターの主な活動は「政策立案演習」と言われる職員研修プログラムの実施で、私はいち参加者でした。参加者は金曜日午後の業務を免除され、前半は学園政策に関する講義が、後半は3つに分属された参加者だけが参加するサブゼミと、参加者全員が参加する本体ゼミが行われました。本体ゼミの指導教員は本学の教員が担当となり、サブゼミは3名の部長職の職員が指導教員として担当し、研修参加者は自分が所属する部課の業務課題を所属長と相談の上で研究テーマとして選択し、その名の通り政策立案を考え、研究レポートにまとめるとともに本体ゼミで発表する、ということが求められていました。  本体ゼミの担当教員は日常的には非常に温和な方でしたが、ゼミになると人格が変わり、非常に厳しく参加者の発表に質問や指摘を投げかけました。本体ゼミには他大学の方も聴講していましたが、その方々も含めた聴衆の面前で知的に吊るし上げられるというのが本体ゼミの光景でした。その教員は「研究者というのは常に評価にさらされており、辛い思いをしながら生きている。皆さんにもその経験をして研究というものを感じ取っていただきたい」という気持ちから、あえてわざと厳しくされたのだとのちに伺いました。  さて、その年にはじまった本研修プログラムは内容が固まり切っておらず、指導担当の教員があれこれと思いついた新しい研修内容が次々に提示されました。海外の大学調査などが提案されましたが、その中にJUAMの研究集会での発表が含まれていたのです。とはいえ、4月から研究がはじまって、9月に発表となるので、充分な内容には昇華し切れて...

第23回 寄席に行ってみませんか?

イメージ
 齊藤 琢磨(熊本学園大学)  学会と私の関わりについては令和3年8月の教育学術新聞で書かせていただいたので、今回は私の趣味について述べたいと思います。  新型コロナウイルス感染症が本格化して1年と10ヶ月近く経過しようとしています。学会はもちろんのこと、社会全体に多大な影響を及ぼしています。  コロナ禍の前、私は東京に行く度に時間を見つけて落語などを聞きに「寄席」に通っていました。寄席について簡単に述べると、落語を中心に、講談、浪曲、漫才、手品や演芸などを楽しむことができる場所です。日曜夕方のテレビ番組「笑点」の出演者の方々も寄席に出演されています。  東京には大きいところで以下の4箇所があります。   ・鈴本演芸場(上野)   ・末広亭(新宿)   ・浅草演芸ホール(浅草)   ・池袋演芸場(池袋)  ここでは毎日、お昼から午後9時頃まで興行されており、3,000円程度で途中入退場自由となっています(再入場は不可。例外あり)。前述のとおり、寄席は落語だけではなく、漫才や手品なども催されており、落語の合間の気分転換にちょうどよいです。「てじなーにゃ」で有名になった山上兄弟も寄席で活躍しています。  寄席に通うきっかけは、とある日曜日に野球のデーゲームを観戦するつもりだったのですが、雨で午前中の早いうちに中止が決定し、どうしようかと考えてた時、以前とある方から「東京に行ったら寄席に行ってみなっせ。東京の違う一面を見ることができるよ」と言われたことを思い出し、最寄りの池袋演芸場に行ったことです。  落語の世界には、弟子入り間もない「前座見習い」、その後「前座」、経験を積んだ「二ツ目」、そして最高位で弟子も取ることができるようになる「真打ち」と4つの段階があります。おおよそ二ツ目を10年勤めると真打ちになることができます。ちょうどその時は「真打披露興行」といって、真打ちになったばかりの落語家の披露が行われていました。落語家にとって、真打ちに昇進するということは長い修業の後、ようやく落語家として認められることになり、披露興行では所属団体(落語協会や落語芸術協会など)の幹部や新真打ちの師匠が顔を揃え、観客に新真打ちが披露されます。最後に観客も一緒に彼らの前途を祝して手締めを行い、落語家と観客が一体となり、とてもあたたかい雰囲気...

第22回 学びの動機

イメージ
 岡田 雄介(龍谷大学) 今振り返ると、既にセピア色の想い出となっている新人時代。新卒で採用された頃は、とにかく研修を繰り返し受講した記憶がある。本学は、昔から体系的な研修プログラムが整っており、新人、5年目まで、それ以上、さらには主事補、主事、副参事・・・等々の資格別研修、管理職になってからも、また、海外研修や自己啓発研修など、多様な研修機会があり、比較的充実した人材育成プログラムがある。それこそ「SD」という言葉もなかった時代から、幾つもの研修を受講したものである。  しかし、受動的に受ける研修はなかなか身に付かない。まして、研修を受ければ終わり的なものは、残念ながら次の日には多くを忘れてしまっていた。  後に、松尾睦先生の「経験学習論」や金井壽宏先生の「実践知」理論などに出会って、なるほど確かに!と納得したが、動機としての出来事、例えば危機に直面、大きな責任を負わされる、苦い失敗体験、初めてのチャレンジなど、負荷やストレスを感じるような場面に直面し、そこで解決策を見出そうと懸命に努力したプロセスでの学びは、その後も自身のキャリアに生き、かつ成長を促すものになったと言える。 前置きが長くなったが、私は大学職員となって最初の3年ほどは、毎日が転職を考えるくらい、やり甲斐を感じていなかった。その後、人事異動を繰り返し、学長室に勤めるまでは、大学職員としての自分は責任ある存在に成り得ていなかったと思う。  今から18年前、私が学長室勤めになる一年前、本学を揺るがす大事件があった。黒歴史として、学内関係者も今や触れることが憚れる法科大学院の不認可騒動(その要因は紙面の都合で割愛)である。今日の設置認可制度が確立してから数十年ぶりの不認可となって、本学以外にも数校あったが、新聞紙上を賑わす一大事であった。当時の私は、このことが悔しくて仕方なかった。  何故そうなったのか?責任を追求する学内議論が渦巻いていたが、起きてしまってことは仕方ない。それよりも私は、羹に懲りて膾を吹くのではなく堂々と再チャレンジするのか?あるいは、諸般の事情により流れが不認可に傾いた設置審の動きを読めなかった大学当局の見通しの甘さは改善されるのか?といった点に問題意識を持ち、そのことを本学教員や大学執行部、管理職の方々に問うて回ったが、満足のいく回答は得られなかった。しかし、このような判断ミ...

第21回 無知を自覚すること

 加藤尚子(青山学院大学) JUAMの事務局からコラムを依頼され、いったい何を書いたらよいのか?と考えたが、今回は、私が大学職員として過ごしてきた中で気づき、大切だと思っていること「無知を自覚すること」について少し書いてみようと思う。 私が大学行政管理学会に入会したての頃、おそらく大学職員になってから7~8年くらいたった頃だっただろうか。仕事にも慣れ、ある程度仕事も処理できるようになってきて「大学職員は、与えられた仕事さえしっかりこなせていればいいのかな」となんとなく思い始めていた矢先、何かの勉強会だったと記憶しているが、本学会の初代副会長だった村上義紀さん(元早稲田大学副総長)にお会いした。 私は、村上さんのお名前はどこかで聞いたことはあったが、その時は思い出せず(のちに私立大学連盟の新人層研修に参加させてもらった時の私大連研修委員会委員長だったことを思い出したのだが)、この方はどういう方なのだろう?と思っていた時、不意に村上さんから「あなたは、世界で最初にできた大学とはどこか? そこでは何を教えていたのかこたえられるか?」ときかれた。 この問いに対するこたえは、大学の起源には諸説あるけれども、一般的には11世紀から12世紀にかけてヨーロッパで起こったユニバーシティやカレッジがその起源とされ、世界で最初にできた大学は、イタリアのボローニャ大学やフランスのパリ大学といわれている。またそこでは「神学」「基本的な教養」「法律」「医学」の4つが教えられ、これらの学問が枝分かれして現在の学問分野「人文科学系」「社会科学系」「自然科学系」が成り立っているのだが、この時、私は、村上さんからきかれた問いにこたえることができなかった(高校の世界史の教科書に載っているにもかかわらず・・・)。 そして、このことは、少なからず、私に衝撃と大学関連知識を学ぶきっかけを与えた。 大学に勤務しているにもかかわらず、私は、大学がどのような歴史をたどってきたのかをはじめ、大学に関連することをまるで知らない。このまま、自分が働く場所に関連する知識を知らないまま仕事を続けていて本当によいのだろうかと・・・。 人によっては「実際、職員が行っている仕事は実務であり、大学に関連する知識を学んだとしても、実務に活かされることは少ない。だから、(大学関連)知識を学んでも、それほど意味はない。自己満足にす...

第20回 孫福先生に伝えたかった「感謝」

イメージ
遠藤美由樹(京都産業大学) 現在,JUAM会員数は1,200人を超え,学会への入会もこれまでのように会員の推薦も不要となり,また高等専門学校の職員の方にも門戸がひらかれるという。私が会員になった当時は,原則管理職で,学会員の推薦を条件に係長など監督職以上である必要があったが,次代の育成,開かれた学会という点で合理的な展開であろう。 ところで,孫福賞の由来となる本学会の初代会長である孫福弘氏の名を知らない学会員はいないと思うが,孫福先生と直接お会いした方,またお話し聞いた方がどれくらいいらっしゃるどうかわからないが,このコラムにて孫福先生のことを僭越ながらお伝えすることをお許しいただきたい。 孫福先生が急逝されたのが,2004年6月であったのだが,その前年,広島修道大学を会場校として開催された総会研究集会の懇親会場で,たまたま同じテーブルに着き,短い時間ではあったが,大学職員の学びについて語り合った。 孫福先生によれば,職員は変革期のなかで,大学のトップである学長,理事をサポートし,そのためには自らの能力を強化し,専門性と仕事の質を高め,大学の改革の担い手でならなければならない。そして,能力を強化するため,大学院で学ぶということも選択肢の一つであるとのことであった。それから,翌年に開設する桜美林大学大学院国際学研究科アドミニストレーション専攻のことをご紹介いただいた。この領域において,通信制では初めての大学院であること,そしてその教授陣の一員として孫福先生も加わること,「業務との両立を目指す貴女のような方のための大学院だから,ぜひ」と,懇親会場でちゃっかりと募集活動を展開いただいた。その場で私は受験を決め,「一期生としてもし合格できましたら,孫福先生の授業を履修します。」「では,次にお目にかかれるのは,夏のスクーリングですね」と再会をお約束いただいた。 資料を取り寄せ,無事に一期生として桜美林大学大学院に入学することになった。スタディーガイド,テキストなどが自宅に届けられ,週末と就寝時間を削って,テキストや参考文献を読み込み,孫福先生担当の「教育と研究のマネジメント」をはじめレポートの作成に明け暮れていた。ところが,1回目のレポートを提出してしばらくして,孫福先生の訃報の知らせが届き,驚きとともに,再会を約束いただいた孫福先生の授業を受けられないのか,,,と残念でなら...

第19回 一般社団法人大学行政管理学会 理事3期を終えて

イメージ
西村英世(高崎健康福祉大学) 北関東・信越地区研究会の世話人代表となって、9年が経過しました。その間、第11期から13期、3期6年にわたり、学会理事として務めてまいりました。2021年9月をもって任期満了となります。無事に理事を務められましたのも、任期中の会長、副会長、事務局長、事務局長補佐の皆様並びに同期理事役員の皆様、市ヶ谷オフィスの皆様、地区内会員の皆様にご指導、ご支援を頂戴できたからです。この場をお借りして御礼申し上げます。 退任時期が近いことから、理事となる少し前からの私自身の活動と感想を述べさせていただきます。 私が地区の世話人代表に指名されたのは、2012年3月のことでした。学会に入会したのは2009年です。それまでは地区研究会の運営のお手伝いはしておりましたが、前世話人代表が当時の勤務校を退職されることになり、突然役割を拝命した形となりました。連絡があった当日は私事ではありますが授かった子供が死産し、ちょうど火葬を済ませた日でした。家族で悲しみに暮れる中頂戴した連絡でしたので、亡くなった我が子から父親への更なる飛躍を求めるプレゼントのように感じた次第です。快くお引き受けしました。 それからは地区研究会の運営に関する知識や人脈もなく、暗中模索で単独対応しておりました。その後、第9期の大工原会長、第10期の新藤会長の依頼を受け、金田副会長(第13期会長)と前田理事にお声掛けをいただき、第11期より理事としてお世話になることになります。 第11期では西川会長を中心に、学会を一般社団法人化することと、学会発足20周年という大きなイベントがあり、関係者大変ご苦労されている時期でした。正直直接お会いするのは初めての方も多く、普段から学会のイベントに参加していなかったことを猛省した次第です。理事会や配属された委員会の会議もあり、少しずつ地区を超えた方々との交流が増えてきました。また、当時の金田20周年記念事業実行委員長にお願いして北関東・信越地区研究会として、20周年記念シンポジウムも実現できました。 第12期では永和田会長を中心に、第11期執行部からの引継ぎ事項に取り組んでいきます。高橋副会長ご指導の元、地区研究会活動が活発になっていきます。世話人も3名態勢となって単独で何とかしていた時代には想像もつかないくらい、多くの方々との出会いと学びにあふれておりました。...

第18回 「ご機嫌に」働く

イメージ
福留園子(高知工科大学) 本学では、教育に関連した様々な定期刊行物を管理職に回覧している。「朝読書」として業務が始まる前に読むこともあれば、コロナ下、一人で黙食しながら読むこともある。回覧を止めてしまうのは申し訳ないのでパスすることもあれば、じっくり読みたくて休日に読むこともある。 おそらく皆がそんな感じなので、タイムリーな情報源にはなっていないのだが、様々な意見に触れ「なるほど」と思ったり、時には読むのを止めて深く考えたりもする。 最近読んだ「文部科学教育通信」(株式会社ジアース教育新社)のとある記事に、イソップ寓話「3人のレンガ職人」が引用されていた。「ん? 最近同じ話をどこかで聞いたな」となかなか呼び覚ませない記憶をたどると、ドラマ「イチケイのカラス」に出てきていたのを思い出した。 うん十年の人生において、このイソップ寓話に接したのは記憶にある限りこの2回なのであるが、その2回が至近であることに驚いた。そういえば、「ドッペルゲンガー」という言葉も、人生において2回ぐらいしか聞いたことがないのに、その2回が同じ日で驚いたことがあった。 それはさておき、「文部科学教育通信」の記事には、自大学の存在理由、使命を徹底的に考えぬくことの重要性、「本当にそうなりたい」と心から思える、自分の中から出てきた信念がないと目標に向かって走りぬくことはできないということ、使命のために動くとき、人は自分たちの損得や都合は考えない、辛くても自らの意思で全力を尽くせる、といったことが書かかれていた。 「レンガを積む」という与えられた役割をこなす、「家族を養う」ために働く、「完成した大聖堂に人が集まり多くの人が救われる」その未来に関わる使命を感じながら働く。「3人のレンガ職人」の寓話は、3人目の職人になり、使命のため、仕事への誇りをもって働くことを礼賛するものであろう。 振り返って自分のことを考えたとき、いつも3人目の職人ではないと思う。なぜ今頑張れるのか、何のために頑張るのか。長い職業人生には成長や波があり、ただ黙々と役割をこなす時期もあれば、「生活のため」と割り切って頭の整理をすることもある。いつもぶれず、3人目の職人の視点で仕事に取り組み、同様に周囲を鼓舞してくれる人が周囲にいることは幸運である。 せめて自分も、自分が依って立つ使命を自分なりに考え、3人目の職人さながら、少しでも幸福...