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第40回 年齢(経験)を重ねて

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 藤原 僚平(福岡大学)   仕事をしていると、年齢を感じることが増えてきました。知っていることやわかることが増え、反射的に回答できたり、動けたりすることが増えたようにも思います。また、つまずきそうなこと、例えば、小石や落とし穴のようなものが見えたり、先のトラブルの種が推測できたりするようになり、それらを避けることもうまくなりました。  その逆も然りで、知った、わかったからこそ、安易に踏み込めないこと、答えられないことも増えてきました。”保守的”になったのかなと感じることもあります。   私のかかりつけ医の病院の待合室には、サムエル・ウルマンの「青春」という詩が貼ってあります。この病院には、開業時からお世話になっており、いつの頃からかこの詩が貼ってありました。診療を待つ時間、よくこの詩を見ています。一部引用します。 「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。(略) 青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(略) 二〇歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春にして已む。」 (マーガレット E ・アームブレスター著 作山宗久訳、サムエル・ウルマンの生涯とその遺産-「青春」の詩、 1993 年) この詩を見て、私は幼少期を思い起こします。昔見たヒーローアニメや、タイトルも思い出せないドラマなど、古臭い言い方をすれば、いわゆるセピア色の思い出と表現すれば想像しやすいかもしれません。  幼少期に思っていたことは、こんな大人になりたいという思いとともに、こんな大人にはなりたくないという思いでした。正しくないとわかっていながら組織の論理で動くこと、正しいことを正しいといえないことなど、そんなふうにはなりたくないと。  振り返って、今の自分はなりたくない大人になっていないだろうか。かつて憧れた正義のヒーローのようにはいかなくても、子どもの頃の自分に恥ずかしくない姿でいたいなと、この詩を見るたびに幼少期を思い返し、日々仕事をしています。  年齢(経験)を重ねて、自らを変え、順応していくことは大事です。しかし、変えてはいけないものも変わってしまっていないだ...

第39回 「場」としてのJUAM

辰巳 早苗(追手門学院大学)    この度、大変光栄なことに、リレーコラム執筆の機会をいただくことになりました。これまでのリレーコラム執筆者のみなさまの素晴らしいお顔ぶれ、内容に、後に連なるのは甚だ気が引けるところではありますが、お目汚し、失礼いたします。  私が大学職員になったのは、事情で民間企業を退職したあと、通りすがりのハローワークに立ち寄ったことがきっかけでした。私自身は大学在学中に事務室に行くことがほぼなく、どんな仕事かピンとこないままの応募でした。入職すると、当時の大学事務局は膨大な事務作業をみんなでこなしている感じの、経験したことがないのんびりとした雰囲気でした。教務課に配属になり、履修中の読み込みデータを全削除して職場を凍り付かせる事態も招きありながら、楽しく学生対応に勤しみました。女子大だったせいか人懐っこい学生が多く、授業の合間に訪ねてくれたり、卒業後も交流があったり、楽しく過ごしました。自分たちの活動に対する思いをしっかり持つ学生とのやり取りは学生を支援する職員の役割を考える機会にもなりました。  ただ、そんな毎日に私はどうやってこの先の仕事を進めていくのか、漠然とした不安を持つようになりました。不遜にもある程度の経験を持って入職したつもりだった私にとって、淡々と事務作業をこなしているだけに思える毎日に、これでは成長しないのではないかと図々しいモヤモヤを感じるようになりました。どうすれば成長の機会が得られるかと模索しはじめました。  そこで、まず情報を探してある大学職員の方のWebサイトを見つけました。このサイトは匿名の参加者の投稿で成り立つ形式のもので、いろいろな情報が惜しげもなく投稿され、日々このサイトをチェックして学び、徐々にいろいろな方とつながっていきました。そしてWebでのつながりをきっかけにJUAMの定期総会で研究会に飛び込み参加しました。当時まだJUAMは管理職が紹介を得て入会するハードルの高い組織で、学会関係者に知己のない私にはとても近づけるものではありませんでしたが、この研究会への飛び込み参加ののち正式にJUAMの末席に名を連ねさせていただくことになりました。  同じころ職場で桜美林大学の公開講座の参加の機会をもらったことで、またいろいろな方に面識を得ました。さらに、先に大学職員のネットワークを立ち上げていた...

第38回 IRRT(海外職員団体等調査・連携企画チーム)

 赤松 茂利(早稲田大学)  IRRT(海外職員団体等調査・連携企画チーム)は、「テーマ別研究会設置・運営要領」に基づかない組織として、2021年7月に国際委員会の中に設置されたプロジェクトである。第1期生(2023年6月まで)はJUAM会員の中で公募を行い、6名の大学職員が選ばれた。チームの主な活動内容は、①海外各国・地域の職員団体や大学等にかかわる調査および情報収集活動、②JUAMの国際連携案の策定、③成果の発信によるJUAM 会員への還元、の3点である。現在はIRRTのメンバーの専門分野や興味関心に応じて、複数のSpecial Interest Group (SIG)を構成し、各メンバーが主体的な調査活動を展開している。  当方は海外学生リクルート、海外アドミッション、外国学習歴・資格認証(Foreign Credential Evaluation/Recognition: FCE)(※1)などへの興味関心が高いため、IRRTの活動の一環として、国際的な資格評価者(Credential Evaluator)の職能集団であるThe Association for International Credential Evaluation Professionals (TAICEP)への接近を試みた。2021年11月のAnnual Conference(オンライン実施)への参加を通じて痛感したのは、この業界における「日本の存在感の希薄さ」の一言に尽きる。アジア地域の関心事(セッション内容)の大半を中国が占めるのは学生の国際流動性の規模から見て当然ではあるものの、そもそも日本からの会員は2019年9月に設置されたNIC-Japan(高等教育資格承認情報センター)の方々数名と私しか見つからないので、会員人口比からプレゼンスを示せないことも大きく影響しているように思われる。カンファレンスでは会員が実際に扱ったFCEの難案件を持ち寄り、経験が豊富な資格評価者が公開審査(=お悩み解決)を行う「Credential Doctor」という催しがあるのだが、管見の限り、日本のケースが扱われることはなかった。  こうした実情を背景に、海外団体との連携を深める第一歩は、我が国の情報を正しく発信することであるとの考えのもと、IRRTでは全国の大学を対象としたFCEの評価実態に関する...

第37回 自己啓発の取り組みはどのようにして活用に至るのか─その困難と課題─

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 中元 崇(京都大学) 1.はじめに  先般リレーコラムのご依頼をいただきましたが、テーマは自由とのことで、どのような題材にするか悩みました。現在の業務や業界について思うこと、あるいは大学院の経験について執筆しようとも思いましたが、他の執筆者と重ならないテーマであれば読者もフレッシュに読んでいただけるかと考え、私の博士論文を題材に、いわば「自著を語る」機会にしたいと思います。  博士論文の題目は 『大学職員の自己啓発による職務能力の形成と活用に関する研究』 です(リンクからダウンロード可)。大学職員の方が大半である JUAM 会員の皆さまにも関心を持っていただけるような題目のものかと思います。 2.博士論文の概要 (1)執筆の背景  大学職員の職能開発に関して、私自身は少なくとも入職時には全く意識していなかったというのが率直なところです。「たまたま」のこととして、国立大学法人化の転機、出向の転機が重なり、自発的に学ぶようになったり、また同様の志を持つ方に出会うようになりました。そうした方の中には、学内外での勉強会や研究会等を主導されたり、自費で大学院等に通われたり、大変精力的に頑張られている方もいらっしゃいました。  ところがある時、必ずしもそのように学んでいる方が職場から評価されたり、その学んだ内容を活かせるような処遇を受けているわけではないということに気づきました。当初は時間の問題とも思いましたが、何年経とうともそのような傾向が変わることもありません。これはいったい全体なぜそうなっているのだろうとの思いを持つに至りました(このあたりの詳細は博論 p.15-16 を参照)。  このように、入職後の学びが評価・処遇に反映されない背景には、業界を問わず日本の雇用関係全体を規定する「日本型雇用システム」の存在があります(このシステムの詳細は労働学者の濱口桂一郎さんの 『新しい労働社会』 を始めとする諸著作をご参考ください)。このシステムでは一部専門職を除けば、個人が保有する知識・スキルと、与えられる業務が結びついておらず、採用後に個人が独自に何かしらの知識・スキルを身につけたとしても、それを組織が評価し、適切な処遇を行うことには(直接には)結び付きません。  このシステムは大変強固なものです。なにしろ高等教育機関という、社会人の学び直しの機会を提供し、学び直しで...

第36回 オンラインで「きれいな音声」を

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鈴木 洋(芝浦工業大学)  2020年から始まったコロナ禍は世界中の大学と学生に大きな影響をあたえました。   突然始まったオンラインでの遠隔授業、 会議や学会等もオンライン での開催になるなど激変したといっても 過言ではないでしょう。 さらに、コロナ禍が長期化する中、 徐々に登校が可能になった事で ハイブリッド、 ハイフレックス形式での授業も行われるようになり ました。 各大学で様々な工夫で乗り切ってきたと思います。 今回は、 自身の振り返りも込めて、 本学での工夫を少し具体的に反 省点や今後にむけた展望なども書い てみたいと思います。 私の大学 でメインに使われているのはZoomですが、 他のオンライン会議 サービスでもおおむね同じだと思われます。 オンラインで重要なのは「きれいな音声」   最近、殆どの会議や打合せはZoomで行われています。 この2年の経験から、いかに「きれいな音声」を配信するか? が重要ということが身に沁みました。     例えば、会議参加者の一人が、酷い音声で配信すると、 参加している全ての人の耳にはそれが届き続け、 大きなストレスになり、 場合によっては会議どころではなくなってしまいます。  殆どのパターンでは、 主に周囲の雑音を拾ってしまうマイクに問題があります。 しかもこのパターンでは、 話している人は自分の音声が酷い音声で参加者の耳に入っていると は気づかない場合が殆どです。   本学では、2020年4月の時点で、 ノイズキャンセリング機能を持ったマイク付きのヘッドセットを、 まずは学事系の管理職に配りました。機種は、 Plantronics社のBlackwire C5210(片耳)でした。 これは2018年の3月に別の用途用に複数購入していたものでし たが、周囲がざわついてる事務室の自席においても、 殆ど周りの音を拾わずに、 自身の声のみをきれいに届けてくれました。  後から思えば、 最初にほとんど全ての学事系管理職に配ったのは正解で、その後、 それぞれの部署の職員用に購入する場合も、 この点を重視してくれるようになったように思います。ただ、 この機種のヘッドセットはコロナ禍では価格が暴騰し、 なかなか買えなくなってしまいました。 そこで自部署の職員用にはゼンハイザー(Sennheiser) 社のPC8 USB(両耳)を...

第35回 生きていくということは学ぶこと

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佐藤浩輔(大阪体育大学) 「これがいい」 息子がまっすぐ指さしたのは、シルバーのランドセルだった。 「シルバーか…」 男の子は黒、女の子は赤、の時代に育ち、しかも妻から「ひと昔前に生まれる予定だったんじゃない?」とあきれられるほど頭の固い私は、すぐには言葉を返せなかった。  長男が来年から小学生になるので、ランドセルを買うための下見に行った時のことである。昔と違い今のランドセルはカラーバリエーションが豊富で、お子様ランチのおもちゃをひとつ選ぶにも迷いに迷ってなかなか決められない息子には、すぐに決断できないだろうと思っていた。友達と遊ぶ時も、自分が引っ張っていくより友達の遊びに乗っかっていくほうが好きな子だった。自主性のある子に育ってほしいと願いながらも、これが本人の性格なのかなと思っていた。 「ほら、他にも色んな種類があるで。もっと見てみたら?」 私が勧めると気を遣って他のランドセルも背負ってくれるものの、一通り背負った後、 「やっぱりこれがいい」 小さい声ながらもはっきりと言った。  思い返せばこの1年ほどの間に、彼には弟ができ、習い事を始め、5歳の子供には小さくはない環境の変化があった。その中で、経験を積み重ね、社会が広がったことで、私が気付かないうちにしっかりと自我を持ち一人の人間として成長していたのだ。 我が身を振り返ってみると、どうだろうか?  数年前、30代半ばに差し掛かり新たな環境でのスキルアップを目指して転職を考え、ありがたいことに今の職場に迎えていただいた。  同職種間の転職といえども、職場が違えば組織の風土や仕事の進め方も違うわけで、新天地では毎日あらゆる物事が新鮮だった。  その中で、前職の良いところは取り入れつつ、新たな職場とその上司や同僚から多くを学んできた。さらに、行政管理学会などの学外研修を通じて、他大学の職員との交流を図ってきた。そして、この春から部署異動し、さらに新たな発見と学びを重ねているところである。  自身を取り巻く環境が変化することで、数多くの新たな経験をし、初めて故の成功や失敗を積み重ねる。そうして具体的な経験をしてショックを受けることで新たに「気付き」が生まれる。「気付き」があるということは、そこから学んだということであり、それは成長の証である。  しかし、環境が変化してもその変化に漫然とついていくだけでは「気付き」は生...

第34回 人生徒然、悲喜交々

久我秀一(福岡大学)  会員リレーコラム読者の皆さま、こんにちは。この度は、何のご縁か執筆のお話を頂戴し、私のようなものに勿体ないお話、いやいや単なる人選間違えではと思いつつ、時は既に原稿締め切りの前日。勤務時間も過ぎ、窓の外は暗くなり、私が日ごろ気分転換に拝ませていただいている緑豊かな油山も見えなくなっている。「嗚呼またやってしまった!」 気分が乗らないとギアが入らないという私の性分が出てしまった(実際はギアが入っても、ローギアのままのほうが多いのだが・・)。 さてさてどうしたものか・・ 自分が何をお伝えできるのか。社会人になって 30 云年。孔子先生流に言うと、「天命を知る」から「耳順う」になるべき世代である。 2 度の転職を経験し、今の大学にお世話になっているが、「忠臣は二君に仕えず」という価値観からすると、我ながら座りの悪い人生を送っていると常々思っている。こんな私がお伝えできることは・・。まぁ肩肘張らず、裃つけず、常々思うところを、気の向くまま、思いつくまま、したためさせていただくことにしよう。 「常識」と「非常識」  世の中では、「あの人は常識的な人だ」と誉め言葉で使われたり、面白みのない人間という意味で使われたりする。非常に真っ当な人という意味合いかと理解している。しかし、先の見えないと言われるこの時代、「常識的な発想ではだめだ。常識にとらわれず、もっと大胆でなければこの時代は乗り超えられない」という言葉も聞かれる。両方とも言わんとしていることはよくわかるのだが、そもそも「常識」って何なのだろうか・・。「非常識」や「未常識」という言葉も聞かれるが・・。 「普通」と「普通じゃない」  先ほどの「常識」「非常識」と似たようなことかもしれないが、「普通の人」というと、「常識的な人」というのよりも「可もなく不可もなく」というニュアンスが強いのかもしれない。ちなみに世の人は自分のことをどのように考えているのだろうか。三者三様、十人十色、百人百様、千差万別云々という言葉がある。ということは、「普通」も 100 人いれば 100 通りの普通があるのかも・・。もしかしたら、いろいろな普通を許容しているから世の中がうまく回っているのかもしれない。 「自由」と「責任」、「権利」と「義務」  「自由」「権利」、血を流して勝ち取ってきた諸外国の方々とは少し事情が異なるのかもし...